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瀬田なつき監督特集 その2
todomaruka

第一回監督作の『とどまるか なくなるか』の一場面。

夏の暑い盛りのこと。3人の女子学生が口々に「暑い暑い」と言いながら公園の中を歩いてくる。
ふと、そのうちの一人、主人公の少女が足を止めて、視線を横に向ける。視線の先に、公園に置いてあるにしては、ちょっと場違いな階段(その場所に存在していることが変というか・・・)が現れる。
この瞬間、画面の中の音声がぷっつりと消えて、無音描写が始まる。
無音描写はその後の作品にも用いられることが多い(例えば『彼方からの手紙』では、女の子が遠くに見えているものを手で握り締める場面で無音になる)。

『とどまるか なくなるか』において、少女が下校途中に出くわした無音の階段は、いつも見慣れた光景が何かの拍子にいつもと違って見えてしまうことを暗示している。まるで、自分ひとりだけ異界に迷い込んだような。
ここで不意に少女は、絶対的な”孤独”を発見したのだと思う。

事実、映画の後半で、少女の兄、父親(最初から海外出張で不在)、母親が次々に姿を消してゆき、少女はひとりぼっちとなる。壁にハンガーでかけられた衣服が、人物の不在をいっそう際立たせる。
家の中にゴミが溢れてゆき、今まで見慣れていたはずの住居が、鏡が、台所が、浴室が別世界に変貌してゆく。異界が口を開けて彼女を包み込む。雨の中、友達が迎えに来ても、カラフルな赤色と黄色の傘までもが違和感があり、コワく見えてくる。

少女が孤独を悟ること、人間はそもそも生まれつき1人であることを思い知されること。―――これが『とどまるか なくなるか』の主題と私はみた。

このつながりで、『あとのまつり』を観る。映画の構造が、現在と未来を行ったり来たりして、入れ子のような構造になっています。でもこの映画の構造は恐らくハッタリでしょう。

瀬田なつき監督の本質はどこにあるのか?
映画のラスト近くで、赤い服を着た女の子が河川敷でひとりで立ち尽くしているショットに私は大変な感動を覚える。「忘れねーよ」と言い放つ彼女を観ていたら、胸に熱いものが込み上げてきました。正直に申します。このショットで私は泣いた。

あるいは『彼方からの手紙』のラスト近くの場面。主人公の少女が道路わきの階段で(やっぱりここでも階段!)、赤ん坊を抱いた在りし日の父親の姿を思い浮かべる場面でも、少女は世界と隔絶して立ち尽くす。

瀬田なつきの映画で、少女達は孤独に耐えながら2本の足で立ちすくんでいる。その立ち姿にこそ、私は心動かされる。どの作品を観ても、一見楽しい映画のように感じられるが、実は少女達は孤独と対峙しているのだ。
瀬田なつき監督はいたって冷徹な演出家なのである。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

【2010/03/17 23:24 】 | 自主映画 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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