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『チャーリーとチョコレート工場』 ティム・バートン
choko 見れば判ることだが、『チャーリーとチョコレート工場』の場合、チョコレートとは”シネマ”の比喩とみて間違いあるまい。チャーリー少年のお祖父さんが言う「かつて夢のような工場があった」というのは、30年台や50年代のハリウッドの夢の工場を指すのだろう。
 なにしろ『チャーリーとチョコレート工場』のチョコレート工場の門が開かれ、工場見学の子供達を出迎えるやいなや、ティム・バートンは『生血を吸う女』(ジョルジュ・フェッローニ)をかますのである。チョコーレートが『2001年宇宙の旅』(s・キューブリック)のモノリスを模していたり、いきなり『サイコ』(A・ヒッチコック)が始まってしまったり、工場内部は映画史のパロディの愉快な氾濫に溢れている。
 動物愛護団体や人権団体がクレームをつけてこないか、冷や冷やしながら『チャーリーとチョコレート工場』を観ていました。愉快な音楽やダンスに目が行ってしまうが、相当やばいことをやっているようにも思うのだが・・・。動物をびしびし鞭で打ったり。

●夢見る力
 ジョニー・デップ扮する工場長が、欲にまみれた子供達を世界中から集めて、彼らにお仕置きを食らわす映画なのだが、ではティム・バートンは何を懲らしめるのか。まずアジア人、アフリカ人、中東人、は外すと。グローバリゼーションの先端をゆき、過剰な競争心と同じくらいに、過剰な欲望を増長させる西側諸国の子供達に、ジョニー・デップの凝りに凝った悪意が向けられる。
 豊かな国の子供達は夢見る力が落ちている、と。リスに頭を叩かれて、頭の中が空っぽと判断されるまでに、想像力が欠如している、ということだ。
 5人の子供の中でチャーリー少年が最後に勝ち抜くのは彼が貧しいからではない。チョコレート=シネマの存在にわくわくと心躍らせて、夢見ることができるから、なのだ。
 しかしながら映画のラスト、ある者はペチャンコにされ、ある者はブルーベリーの体質にされ、ある者は、ゴミまみれにされながらも、この欲深き子供達に反省や改心の態度が見受けられないのはどういうことか。バカ共は放っておけ、ということなのだろうか。

●ここは本当にアメリカなのか
 ところで、辺り一面の雪に包まれている『チャーリーとチョコレート工場』のチョコレート工場は地理上どこに存在しているだろう?。どうもそのへんがはっきりしない。
 何となくこの土地がアメリカっぽくないように感じるのはこちらの気のせいか。もの凄い偏見かもしれないが、少年の家族の人達の顔つきも、どことなく非アメリカ的な顔付きをしているように見える。やや、ひょっとしてこの場所は東欧かロシアあたりの地なのではないか。しかるにティム・バートンはアメリカに希望を見出していないのか、などとと思うのは多分、私の思い込みが激しいせいかもね・・・(^_^;)。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

【2006/01/23 11:44 】 | アメリカ映画 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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