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『サンシャイン2057』
sunshine.jpg 凶暴だ。凶暴な映画だ。『サンシャイン2057』にあって太陽というものは、途方も無く凶暴極まりない装置であり、あらゆるものを無へ消滅せしめる。なにしろ宇宙船の角度が変わって陽が当たった途端、人間は粉々に燃え尽き、植物は焼かれ、その存在がかき消されてしまうのだ。こうも絶対的なモノに出くわすと神の存在を信じたくなるのも無理は無い。
 と同時に人間のちっぽけさがやるせなく思えてくる。船外に投げ出された男の辿った運命を見よ。-275℃で瞬間冷凍された彼の身体はアンテナか何かに当たって、バリン!と砕けた後、太陽の陽にさらされて、ボッ!と瞬時に燃え尽きてしまうのである。このボッ!が怖い。彼の身体はどこに消えてしまったのか、彼の魂はどこにいってしまったのか。問答無用の圧倒さで、何もかも雲散霧消だ。
 ハリウッド映画の『ザ・コア』も地球を救う乗組員の話であり、任務の遂行のために身を殉ずるヒロイズムが映画全体にまとわりついていた。それに対して『サンシャイン2057』の非情ぶりは際立っている。乗組員は皆、任務遂行のために死ぬ覚悟が最初から出来上がってしまっている。宇宙船の進路を計算ミスしたら自殺をせにゃならんのだ。失敗は即、死を意味する。到着地点までの酸素をかせぐのに、仲間を殺害することも避けられない事態なのだ。この極端な設定が映画を盛り上げる。
 作品全体の凄さもさることながら、ひとつひとつのカットの連結といいカメラ位置といい、何やら普通の映画とは趣向が違うような気もしたが、どうも良く分からず。いきなり1号機の乗組員の顔写真がインサートされたり、眼球が大写しになったりするのは狙いなのだろうから、あまり感動はしなかったが。
 ラストで1号機の元船長が乗組員に襲いかかるのだが、この元船長さんと生き残った乗組員とのバトルも素晴らしい。でもよく考えたら、この怪人は肌がただれているだけの普通のおじさんなのだが、徹底して被害者の目線で撮られているので、ちゃんと人間を超えた存在に見える。
 それにしても、こんな映画を撮ったというダニー・ボイルというイギリス人は一体全体何を考えているのか。プロデューサーや20世紀FOXの上層部がダニー・ボイル組のやることを止めなかったことが素晴らしい、とさえ思えてくる。
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テーマ:洋画 - ジャンル:映画

【2007/04/30 11:46 】 | ヨーロッパ映画 | コメント(0) | トラックバック(10) | page top↑
『弓』
yumi.jpg 『悪い男』のヤクザが声を失っていたように、『コーストガード』の娘が言葉を喋らないように、『受取人不明』の女子学生が眼の力で全てを語ってみせたように、『うつせみ』の男女が互いに言葉を交わすことなく愛が成立したように、『弓』の老人と娘は言葉を発せぬまま親子の、もしくは男女の関係を維持している。
 この娘(ハン・ヨムル)に老人は言葉を教えていないという設定なのか、とも最初思ったがそうではなく、命がけの占いの結果が娘の口から老人の耳元へ密かに告げられる。一切の発語を禁じながらも老人と娘の深い関係性を描ききるキム・ギドクの演出力は流石だ。いや『うつせみ』を撮ったキム・ギドクにしてみれば、これくらいのことは朝飯前なのだ。
 若い男の登場によって娘と老人の関係に軋みが生まれる。娘が入浴を嫌がり、老人が風呂場を出て胡弓を夜の船上で奏でる場面あたりから、あぁ、そっち方面にいってしまうのか、と思った。海に浮かぶ船の上での撮影と照明はきっと大変なことだったことだろうと想像できる。天候という大問題にも直面したはずだ。
 が、キム・ギドクの資質はそうではないと思うんだが、どうだろう。混沌とした世界でドロドロの人間模様が展開され、その混濁の中で映像美が炸裂する、というのがキム・ギドク映画の魅力ではないかと個人的には思っている。映像美と言っても綺麗なものではなく、『受取人不明』で女子学生の通学路にほふく前進するアメリカ軍の兵隊が横切る、みたいな異様な光景を捉えた映像美に私は惹かれているのだ。うーん上手く言えないが。
 小悪魔的な魅力を存分に湛えたハン・ヨムルは勿論素晴らしい。結婚とはいえ老人は娘とプラトニックな関係を望むが、娘にとっての結婚とは肉体の実感を伴う。一人取り残された船上で眠る娘の股間に弓が刺さり、娘が喘ぐところから、あ、やっとキム・ギドクのペースが戻ってきた、と頼もしく思えてきたのであった。

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【2007/04/28 23:11 】 | 韓国映画 | コメント(1) | トラックバック(6) | page top↑
映画侠区Vol.7 グリフィス特集
 映画侠区vol.7に参加し、1910年代のD・W・グリフィス作品を観ました。
 固定カメラは偉大だ。この時期の映画自体パン、ティルトなどのカメラを動きは一切ない。レールを轢いての移動撮影もない。勿論クレーン撮影もない。その当時のカメラの重量からして、考えてみりゃ当たり前のことだ。カットバックが編み出されたのも、案外、カメラが動かせないという物理的制約によるものかも・・・なんて想像してしまう。
 固定カメラの前で起こった出来事がそっくりそのまま記録される。画面の中での人物の動き方やセットの素晴らしさを観ているだけで楽しい。
 例えば『これらのいやな帽子』。映画館のスクリーンにが画面の奥に写され、それだけで奥行きが強調されるが、カメラの外から妙な客が次々と入ってきて、さらにはUFOキャッチャーみたいな捕獲装置が上から降りてくるという。これら一切の動きが固定カメラのフレーム内で生起するのだ。
 かの蓮實重彦が、無声映画で育った監督とトーキーで育った監督はカメラ位置の感覚が違う、みたいなことを言っていたのが不意に思い出される。
miezru.jpg 『見えざる敵』を観たとき、こんなにも単純な要素で劇映画は成り立ってしまうのか、とハッとなった。美しい姉妹(リリアン・ギッシュとドロシー・ギッシュだ!)、悪い男、呑んだくれのおばさん、金庫破り、密室、拳銃、たったそれだけ。
 で、その悪者が部屋に閉じ込められた姉妹に対して拳銃を向ける。壁に開いた穴に手を差し込んで、壁の向こう側の姉妹に対して拳銃を左右に振る。拳銃の動きに合わせて姉妹が大袈裟に逃げ惑ったり気絶したり・・・実にほほえましい光景だが映画的には素晴らしい。電話の喋り相手を介してのカットバックもすかさず炸裂する。
 それにしても、グリフィス映画で美しい女性が拳銃を持つとドキドキする。そういえば、「映画とは女と拳銃である」と言った御方が映画史におられたな、と思って調べたらD・W・グリフィスその人でした。

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【2007/04/22 15:54 】 | 映画侠区(映画鑑賞会) | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『デジャブ』
dejabu.jpg 女がきびすを返して離岸寸前の船にぴよーんと飛び乗る場面に、うぉっと身を乗り出してしまった。カーアクションも爆発もばっちり決まる。特に冒頭の爆発場面が凄まじい。体に火のついた人が海に投げ出されるという絵が撮れるだけでハリウッドは凄いと改めて思う。『ガメラⅢ』の渋谷での爆発場面も凄かった、と思い起こされる。その爆破後の被害地の惨状は、昨今のテロ事件の生々しさを思い出さずにいられない。
 普通、タイムトラベルものだと時制の矛盾とか、原因と結果の不一致とかが気になるものだが、トニー・スコットは女性の救出劇の一点にドラマを運ぶ。細かい矛盾は一切気にならない。
 さすがトニー・スコット、凄い、と思ったのは海岸沿いの爆弾犯の男の隠れ家で、デンゼル・ワシントンが同僚の死体を発見する場面。海中の狭苦しい場所に閉じ込められた仲間をデンゼル・ワシントンの主観で上から撮った後、カットが変わって海側からカメラで捉えられたロングショットが素晴らしい。あの引き絵が撮れるかどうかで映画の価値が決まる、とさえ思う。
 しかし最新の科学技術と莫大な電力を費やしてやることが、女部屋の覗き見とは(@_@;;)。爆弾犯そっちのけで、皆が画面に食い入る。デンゼル・ワシントンも女に魅入られる。彼の活躍ぶりは、何百人もの犠牲者を救うという使命感というより、彼女を救い出したいという個人的な欲求に突き動かされているように思えてならないのだ。

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【2007/04/08 23:20 】 | アメリカ映画 | コメント(1) | トラックバック(5) | page top↑
『蒼き狼 地果て海尽きるまで』
aoki_ookami.jpg 宮崎アニメを実写化したかのような素晴らしい映画。モンゴルの歴史は全く知りませんが、呪われた血、部族間の構想劇など、メロドラマ的な要素がいっぱい詰まっている。『もののけ姫』の弓の撃ち合いのように、弓がびゅんびゅんと飛び交い兵士に刺さるさまが、観ていて実に痛い。ハリウッド映画の拳銃の撃ち合いよりもずっと痛い。
 反町隆史が王としての貫禄にやや欠けるかな、菊川怜が主演女優としての華にやや欠けるかな、という感もちょっと致しますが、そんな些細な事態は澤井信一郎監督にとって何らハンディにもならない。反町隆志は十分に魅力的に写っていたと思う。通俗的な大河ドラマをしっかりと撮ることのできる監督さんが澤井信一郎の他に、日本にあと何人残っておられることでしょうか。
 『蒼き狼 地果て海尽きるまで』は女の映画であった。母親役の若村真由美の回想が随所に入れらられる。彼女だけが他の劇中人物の誰よりも老衰の仕方が激しいように見えるのは気のせいか。
 映画のラスト近くの王の即位の場面。これでもかと集められた群集が手をゆらゆらと揺らしながら「フレーフレー、チンギス・ハーン」と一斉に合唱する様子が、観ていて楽しい。しかし肝心の反町隆志の顔が青ざめていて血の気が引いている。この人は死出の旅に向かおうとしているのかしら、とも思った。王位に就いたものの代償は大き過ぎるということなのだろうか。

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【2007/04/07 22:22 】 | 日本映画 | コメント(3) | トラックバック(5) | page top↑
韓流サロンVOL.31 告知
VOL.31『弓』
2005年/カラー/88分
監督・脚本:キム・ギドク
キャスト:チョン・ソンファン、ハン・ヨルム、ソ・ジソク、チョン・ググァン、キム・イクテ、チャン・デソン、チョ・ソギョン、コン・ユソク

yumi3.jpg


■解説
  釣師たちに場所を提供しながら,人里離れた島の前の海に浮いている古くなった船で暮らす老人と,少女の奇異な愛を描いた映画

■ストーリー
 人里離れた島の前の海に浮かんでいる古くなった船に,老人と少女が10年前から暮らしている。老人は,釣師を乗せることで生活していて,少女は,おじいさんを手伝っている。淫蕩な釣師たちから少女を保護する老人の武器は弓であり,普通の時には楽器として使われる。
 ある日,大学生が釣りにきて,少女を見て魅惑される。そして,老人が少女と結婚することを知った彼は,少女を陸に連れていこうとする。


■日時・場所
 4月22日(日)18:00開始
 参加費 NO CHARGE!(フードとドリンクは別料金)
 注:国料理を食べる御方はお店に電話予約をお願い致します。

 場所:兵庫県神戸市中央区中山手通 1-23-10
 モンシャトーコトブキB1F
【2007/04/04 23:31 】 | 韓流サロン | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
長回しについて、あまり私は知っていないけど、2、3の事柄
 映画史上、長回しを発明したのはどこの誰か。まず真っ先にテオ・アンゲロプロスの名前が思い浮かぶ。昨年末にナナゲイで『旅芸人の記録』を見直しましたのですが、改めて凄さに圧倒されました。劇中人物が歩いているうちに、カットを割らずに時空を超えて別の年代に飛ぶということをやったのは、恐らくアンゲロプロスが史上初ではないでしょうか。
 長回しの面白さのひとつには、カメラのフレームの外側の空間で、事態が刻々と変化してゆくことにあると思われます。軍隊と群集がカメラの外の空間の右から左から出たり入ったりして、目の前で展開されている事の推移に目が奪われます。「私がスクリーンで観ているのは、世界のホンの一部分に過ぎない」、ということを思い知らされます。
 黒沢清監督が『復讐 消えない傷跡』の冒頭の銃撃シーンや、『歓びの渦巻き』『勝手にしやがれ 英雄計画』で真似したくなるのも頷けるというものです。

 他にも長回しの使い手は、近年に限って挙げると、ジャ・ジャンクー、ホン・サンス、ツアイ・ミンリャン、アッバス・キアロスタミの名前が思い浮かびます。
 最初に挙げた3人は固定カメラでじっくりと男女の成り行きを捉えています。
 特にホン・サンスの場合は、固定カメラの長回しのうちに、男女の力関係が変化する様が面白いと思われます。『気まぐれな唇』で男女が占い師に見てもらってるうちに男(キム・サンギョン)が落ち込んでゆき、女(チュ・サンミ)が元気になっていったり、、『オー!スジョン』で男性が女性の名前を言い間違えて、一気に形成が逆転したり・・・

 むむぅ、名前が思いつくのはアジア圏とヨーロッパの監督さんばかりです。ヒッチコックの『ロープ』も長回しですが、あれは固定カメラじゃないし。
 「アメリカ映画こそ、グリフィスこそ最高である」と仰っるライリー警部さんは、ひょっとして長回しが肌に合わなかったりするのかしら?・・・などと勝手に考えたりもします。
 ややっ、大変なことを思い出しました。『工場の出口』は固定カメラで工場の出口を撮影しているだけではありませんか。もしやあれこそ史上初の長回しなのか。しかもリミュエールはフランス人だ。映画は生誕したときから長回しであり、非アメリカ圏に縁があったのかしら。

 さて安藤尋監督の『僕は妹に恋をする』(やっと名前が出ました)ですが、『blue』よりもさらに極端な長回しでした。『blue』では長回しの画面の中にも、様々な物理的な変化が生起していたように覚えています(海辺で吹く風や、少しずつ日が昇る水平線など・・・)。
 が、『僕は妹に恋をする』でのとの役者の微細な心情の変化をカメラで執拗に捉え続けます。安藤監督は役者のフォルムそのものの高みに導こうとしています。さらに安藤監督のフォルムへのこだわりは、人物だけでなく、極端に薄暗い学校の校舎、廊下、カーテンなどの物質的な造形物にも向けられているようにも思います。
 しかしアイドル俳優に多大な負担をかけて大丈夫だったのでしょうか。カット数を増やし、演出の力でもって松本潤と榮倉奈々の演技をもっと援護することもできるはずですが、そうはしていません。時代錯誤と言われようと、やると決めたらなんとしてもやる、という安藤尋監督の強い意志が感じられます。

 ここまで書いてきてエドワード・ヤンの名前を急に思い出しました。あの監督さんは役者のリハーサルを何十回も重ねて、演技をつめてから本番に臨むと聞いたことあります。
 乏しい知識でダラダラと書いてしまいました。長くなってきたので、この辺りで止めます。

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【2007/04/03 23:45 】 | 日記 | コメント(3) | トラックバック(2) | page top↑
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