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映画侠区Vol.7 お知らせ
映画侠区の主催者のライリー警部さんからのお知らせです。

すべての映画はアメリカ映画である
 ~ すべての映画はグリフィスである ~

griffith.jpg デーヴィッド・ウォーク・グリフィス。この20世紀を作った最も偉大な巨人に私たちはまたも帰らなければなりません。すべての映画はグリフィスからはじまります。今回はグリフィスが国際的に評価されるようになる『国民の創生』、『イントレランス』以前のバイオグラフ社時代に焦点を当てます。23本の映画の原石を体験して下さい。



【今回鑑賞作品ご紹介】
 『これらのいやな帽子(Those Awful Hats)』1909年
 『封印された部屋(The Sealed Room)』1909年
 『小麦の買占め(Corner In Wheat)』1909年
 『不変の海(The Unchanging Sea)』1910年
 『彼の信頼(His Trust)』1911年
 『ニューヨークの帽子(The New York Hat)』1912年
 『見えざる敵(An Unseen Enemy)』1912年
 『母のように優しい心(The Mothering Heart)』1913年
 『ドリーの冒険(The Adventures Of Dollie)』1908年
 『高利貸し(The Usurer)』1910年
 『イーノック・アーデン(Enoch Arden)』1911年
 『守銭奴の心(The Miser's Heart)』1911年
 『ピッグ・アリの銃士たち(The Musketeers Of Pig Alley)』1912年
 『強盗のジレンマ(The Burglar's Dilemma)』1912年
 『日光(The Sunbeam)』1912年
 『厚化粧したレディ(The Painted Lady)』1912年
 『かたやビジネス、かたや犯罪(One Is Business,The Other Crime)』1912年
 『死のマラソン(Death's Marathon)』1913年
 『エルダーブッシュ峡谷の戦い(The Battle At Elderbush Gulch)』1913年
 『最後の一滴(The Last Drop Of Water)』1911年
 『友だち(Friends)』1912年
 『小さな悪弊(The Lesser Evil)』1912年
 『大虐殺(The Massacre)』1912年

  ~ すべてが宝なのですよ ~

●日時:4月21日(土)  12:30~順次上映~21:30頃終了予定
●場所:PLANET STUDYO PLUS ONE パイロット・ギャラリー 3階
●会費:1,500円以下になったらイイなとつくづく思う。(機材費 貸しスペース代 ソフト取得料等 かかった分を参加人数で割り勘します)
なお休憩は、いつもどおり皆様の疲労度や都合を見て適当に決定します。
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テーマ:映画監督 - ジャンル:映画

【2007/03/31 11:13 】 | 映画侠区(映画鑑賞会) | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
韓流サロンVOL.30 報告
『つぼみ』の参加者は総勢10名(マスターも入れれば11名)。

字幕なしでかつ内容がハードなので、皆様には引かれはしないかと不安でしたが好評でした。『つぼみ』が大丈夫なら、意外にいけるかも。 
【2007/03/30 23:30 】 | 韓流サロン | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『つぼみ』
tsubomi.jpg 映画の冒頭、カメラがイ・ジョンヒョンの足元からティルトして彼女の全身を捉えたとき、あぁこの映画決まり、と思った。何かに取り付かれたようなイ・ジョンヒョン。魂は破壊されたけれども肉体は生き残っている、という状態をイ・ジョンヒョンが体現する。本当にこの人は気がふれているのではないだろうか、と観ていて何度も思った。
 白黒フィルムの光州事件の再現が悪夢のように恐ろしい。薄暗い路地裏を撮っていたカメラが、ふいにそのまま広場に向けられる。露出オーバー気味の画面の中に、抗議デモの群集の人々の顔の輪郭がぐにゃぐにゃと潰れてひしめき合う。ゾッとする映像。突如、銃弾が飛び交ってばたばたと人が倒れてゆく。「Gwangju massacre」(光州事件の英語表記)とはまさにこのことだ。
 光州事件を調べにやってきた運動家の学生達はイ・ジョンヒョンにたどり着けない。あの虐殺事件は事後解釈で分析できるような生易しいものではなく、韓国の片田舎に残された深過ぎる傷なのかもしれない。
 しかしこんな映画を作ってチャン・ソヌのその後の監督としてのキャリアは大丈夫だったのだろうか。『つぼみ』のような映画を作ったあとでは、『バッドムービー』『LIES』のような実験的な作風に転向するしかなかったのではないか、などとチャン・ソヌには呪われた作家というイメージを抱いてしまう。『レザラクション』はひどく退屈な映画と聞くが、私は観ていない。
 『つぼみ』のDVD化の話も聞かない。お国事情は良く分からないが、タブーに触れる何かがあったのだろうか。

テーマ:韓国映画 - ジャンル:映画

【2007/03/26 23:49 】 | 韓国映画 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『エクステ』
exte.jpg 髪の毛のお化けが人を襲う物語と、美容師を目指す女の子(栗山千明)と幼児虐待を受ける少女の成長物語の2本分の映画が強引にひとつにまとられている。映画の中ほどまで、2つの物語が交わることはない。まぁ強引な映画なんだが、「本来ホラーは雑多な分野であった」と黒沢清も言う。 ホラーをベースにして、色んなエッセンスを注ぎ込む映画がもっと生産されても良いと思う。
 鶴田法男や高橋洋が築いてきたホラーのセンスとは、園子温の資質は当然違う。園子温の場合、肉体的な痛みを伴う恐怖演出に手腕を発揮している。
 髪の毛のお化けが人を襲う場面よりも、臓器売買の犠牲になった少女への手術の場面の方が数段恐ろしい。直接的なスプラッタシーンは皆無にも関わらず、手術用具などが画面に現れるだけで恐ろしい。
 また、ヘアサロンの店員が呪いにかかって、その犠牲者の少女の見た光景が蘇り、お客の耳に鋏を突き立てる場面のサスペンスに満ちた場面の方が、髪の毛のお化けよりも数段恐ろしい。
 『エクステ』で髪の毛のお化けと並んで、いやそれ以上に怖いモンスターは母親のつぐみである。虐待少女を匿う栗山千明の家に母親のつぐみが乗り込んで来る場面は、『紀子の食卓』のラストの修羅場がそのまま持ち込まれたかのような素晴らしさである。園子温は修羅場を描く天才的なセンスな恵まれているのだろうか。
 しかし母親のつぐみは、あっけなく髪の毛のお化けの犠牲になってしまうので、栗山千明と虐待少女が母親(栗山千明にとってはいやらしい姉)を乗り越えて成長する、みたいな感動物語を期待していたらはぐらかされる。『エクステ』は栗山千明が虐待少女を髪の毛のお化けから助け出す救出劇へと強引にシフトする。ラストの大杉蓮と栗山千明の対決に必然性は感じられない。
 それにしても「わかりません、わかりました」と言うあの女の子がとにかく素晴らしい。思春期の女の子の微妙な感情の揺れ動きを描かせたら、園子温の右に出るものはいない、とまで思ってしまう。あと幼年時代の栗山千明が美容室で髪の毛を切ってもらう場面の素晴らしさなどは、どう言っていいか分からないほどだ。

テーマ:ホラー - ジャンル:映画

【2007/03/24 01:18 】 | 日本映画 | コメント(0) | トラックバック(5) | page top↑
JR六甲道駅前にてエキストラ出演
 前日の日曜日の深夜、カフェ裏CO2のサヨナラパーティーで、助監督のテレスドン2号さんと知り合う。急遽、エキストラ出演の話をもちかけられる。平日の撮影なので人の手が足りてなくて困っているらしい。
 翌月曜日、JR六甲道の撮影現場にて、『PRICE TAG』という映画に、警備員の役でエキストラ出演した。30分ほどの短編映画らしい。しかし、頼まれればホイホイ出かけてしまう私は腰が軽すぎるだろうか。いや、気にしない。

 連日、寒い中での撮影のためスタッフさんは大変な御様子だった。
 当日の天気も芳しくなく、太陽が雲に隠れたり出てきたりするので、撮影スタッフは計測器で光の強さを頻繁に測っておられた。僕は技術的なことは全く分からないので、嫉妬の念にかられてしまう。晴れたり曇ったりの不安定な天気より、曇りならずっと曇りのままの方が撮影は楽だ、と助監督さんに聞いた。
 カット数の多い映画らしい。同じ場面でカットが変わるたびに、そのつどカメラ位置を変えて、段取り、本リハなどを経て、本番を迎えることとなる。普段、僕は観るだけの人なので、この種の大変さは気に留めてこなかった。

 何しろJR六甲道の駅前という場所での撮影なので、人止めしたり、車が去るのを待ったりして、大変なようだ。撮影スタッフさんの御苦労が忍ばれる。
 それにしても見物人が多く集まるものだ。写メールでカシャカシャとおばさんが撮影風景を撮っていた。「おいおい僕は普段は、普通の会社員でっせ」とは言いたくなってきたが、止めた。駅周辺をパトロールしている本物の警備員にときどき目が合って、「お前はニセ警備員だろう?」と言われないかと、ドキドキした。
【2007/03/19 00:05 】 | 日記 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
映画狂宴Vol.6 ウォルシュ、フォードそしてホークス  ~アメリカ映画が誕生する瞬間へ~
ferrey2.jpg 映画侠宴Vol.6に参加してきました。僕はホークスとフォードしか観れませんでしたが、貴重な体験をしてきました。
 ホークスのコメディ映画にはのけぞった。ホークスは西部劇、ノワール、SFなどの様々なジャンル映画を撮った巨匠だが、『赤ちゃん教育』『モンキー・ビジネス』などのコメディの冴えも忘れ難い。ホークスはコメディ映画から出発していたのだろうか(不勉強で良く知りません)。
 ところで主催者さんより「三本鑑賞の合間におまけ鑑賞する10分ほどの短編のタイトルを当てた方は、無料にしましょう!」、と問題が出されて短編映画が観たが、僕には分からず。
 はてこれは何の映画だろう? 映画のフォルム、人物の外観、劇中人物の話し言葉から察するに東欧の映画かしら? ワイダやベルイマンなどの監督の固有名詞が頭の中をよぎったが、よもやドライヤー監督作品だったとは。
 『彼らはフェリーに間に合った』というタイトルの交通安全の宣伝映画らしい。が、宣伝映画然としていない。何と言えば良いか、コワい映画だった。バイクを走らせる二人乗りの男女を手を変え品を変え、多様なアングルから捉えられているうちに、物質の持つ凶暴なフォルムが観る者に迫ってくるような凄みをみせている。
 高速回転するバイクの車輪のアップ(⇒『裁かるるジャンヌ』の拷問器具の車輪を想起しよう)、棺桶(⇒言わずもがな『吸血鬼』である)、そして何と言っても死神さんのチャーミングな微笑み・・・、おぉそう言えば カール.Th.ドライヤー の映画に必須のアイテムが揃いまくっていたではないか。後から言われてみて納得した。ちょっぴり悔しい。
 それにしてもライリー警部さんはこのような貴重なものをどこから見つけてくるのだろう。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

【2007/03/14 23:09 】 | 映画侠区(映画鑑賞会) | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』
ochon.jpg 今、日本映画には重要な「ひろし」が3人だけ存在する。高橋洋、安藤尋、そして西尾孔志、この3人である。この御三方が少なからず接点を持たれていることを最近知って興奮を隠し切れない。
 それはともかく、大阪の心斎橋にあるカフェ裏CO2にて”女の子映画祭”とセットで鑑賞した『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』はとにかく面白かった。第一回のCOのグランプリ作品なので観る前から面白いに決まっていると思っていたのだが、こうも面白いとは。
 『ナショナルアンセム』同様に世界の崩壊の図が描かれるが、『おちょんちゃん』では一人の女の子に怪しげな何かを憑依させて、西尾孔志は再び世界の崩壊の引き金を引こうとしている。
 何と言っても主演の上田洋子が素敵だ。方針状態で口が半開きの彼女の表情が忘れ難く素晴らしい。亡霊を従えた彼女(ハナ)を巫女にして、西尾孔志はこの私達の見慣れた世界に亀裂を生じさせる。
 西尾映画の女性は犯されるかもしくは銃で撃たれるかして、きまってロクな目に遭わない。その犯すか撃つかした男性も惨めな末路を辿る。一人の女の子の身に起こった不幸な出来事が、世界の崩壊まで一挙に拡大される荒唐無稽ぶり。ラストは『スペースバンパイヤ』(T・フーパー)の形を借りながら、ハナとおちょんちゃんがひとつに合体する。『ナショナルアンセム』では世界の破綻が個の闘争へと昇華したが、『おちょんちゃん』では、世界の崩壊のさなかにあって、個人の救済がもたらされることになる。

 『ナショナルアンセム』の姉妹がチャーミングな相貌で画面に映っていたことからも明らかなように、また『ナショナルアンセム』のラストは女性の闘争映画に強引にシフトしながらも女闘士がやたらカッコよく見えたように、西尾孔志には女性を撮る才能に恵まれている。それに反して、盲目の老人や宗教家などの男性キャラクターが少し型にはまった感がするのが、少し物足りない気もするだろうか。

 「性的トラウマ」と口にするのは簡単だが、それをどうやって映像表現にするのか。多分、誰がやっても悩むと思われ、またそこにこそ映画作家の力量が試される。西尾孔志は小中理論に即した亡霊演出を呼び寄せた。例えば居酒屋の場面で沖縄民謡を踊るハナを見つめるおちょんちゃんが壁の隅の普通の人間ではありえない位置に立っていたり、診察室の場面でカットが変わったら突如おちょんちゃんが医師の隣に立っていたりする場面がそうだ、。
 が、小中理論を参照しつつも、カットと滞空時間がビデオ撮影でありながら、優れて映画的だ。あるカットに続く次のカットが予想できない、という興奮の体験へと『おちょんちゃん』は観る者を誘うのである。全体的にカット尻が短いためにそう感じられるのではない。あるカットをどのカメラ位置でどれだけの時間をかけて見せればよいかという的確な判断が細部に行き渡っている。
 例えば、UFOを呼ぶ集団を撮るのに、引き絵を選択できる西尾監督のカメラ位置は聡明だ。なおかつサークルの中心が画面のを外れているというセンスの良さ。”一時間後”という字幕の後に、ハナが”はらぎゃてぃ~”、と最も大きな声を張り上げている、というギャグも追加される。
 紙飛行機が飛んだ後に、フレームの外からハナが入ってくる絵ひとつとってみても、ハッとさせられる力がある。ハナがマンションに帰宅してきて、同居中の女がセックスにふけるのを見つける場面の長回しなどもちゃんと決まる。その同居中の女と公園で別れる場面の、あのブランコの撮り方も凄かった。

 さらには、どうやって撮影したのか?と不思議にも思う映像がいくつか存在する。例えば、エイリアンの男に刑事がアリバイを聞きに来る場面で、刑事の去り際に、突如として背景に直後の飛行機が横切るカットなどは、よくもまあこんな凄い絵が撮ることができたと思う。決して偶然ではない。撮影スタッフは飛行機の離陸をずっと待ち続けていたのだろう。或いは夜の歩道橋の場面でハナがもう一人の自分と出会う場面。恐らく『霊の蠢く家』を参照しているのだろうが、カメラがパンして本人と亡霊がワンカットで捉えられるのが感動的だ。
 或いは、ハナがエイリアンの一味とマンションで夜通し過ごした後、ハナが帰る場面。一旦歩道に出た後、エイリアンの男の立ち位置まで戻ってくるのだが、彼らを捉える画面の右半分が遮られて真っ暗になっている。普通、ああいう絵を撮ったら駄目なはずなんだけど、あの妙な画面の余白に何故かしら惹きつけられるものがあるのは、何故だろうか。

テーマ:西尾孔志 - ジャンル:映画

【2007/03/14 10:43 】 | 映画監督 西尾孔志 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『叫』
sakebi4.jpg 黒沢清は幽霊を人間のように、人間を幽霊のように撮る。それはそれで十分怖い映画になりそうだが、ここ最近の黒沢映画は怖いだけのホラー映画にプラスアルファを与えようとしているように思える。怖さ+未来で『アカルイミライ』が、怖さ+コメディで『ドッペルゲンガー』が、怖さ+恋愛で『LOFT』が、怖さ+許しで『叫』が出来あがる。
 『CURE』のようにハイレベルかつ怖い映画などは、多分、黒沢監督は本気を出せばいつでも撮れるだろう。がしかし、過去は過去。もういい加減、黒沢清作品に怖さのみを求めることは許されていない。人間ドラマはやらないと宣言した黒沢監督はホラーのジャンルを基盤にして、人間ドラマでもなく幽霊映画でもなく、別の何かを映画に降ろしてくるという際どい試みを続けていくに違いない。あぁそれはそれでやっぱり恐ろしい。でも見続ける他ない。

テーマ:映画批評 - ジャンル:映画

【2007/03/13 23:29 】 | 日本映画 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
女の子映画祭 @カフェ裏CO2
 カフェ裏CO2の「女の子映画祭」に行ってきました。どれも5分程度の短い作品で、イメージ映像のような作品も含まれていたため、その一つ一つの素晴らしさを私は理解出来ていない可能性が濃厚だ。
 上手く述べられないかもしれないが、それでも無理して一気に3~5行ほどで感想を書くことにする。以下、エラそうなことを書いてしまい、すみません。



『残炎の候』監督●行貞公博
 ・・・全作品を通して最もかっちりとしたフィルム作品。凝縮した無駄の無いストーリー運び。主演の女の子がとっても色っぽくて、観ていてゾクゾクした。父親殺害場面の刹那的なカット割りも素晴らしい。


『utopianism』監督●垣原愛美
 ・・・電車が走る風景が出てきて、色々とイメージが組み合わさった映像。う~ん、この種のイメージ映像的なものに、観る者はどういう感覚で触れればよいのか、またどのように述べればよいのか分かりません。すみません。


『ヘンなメール』監督●秋枝友子
 ・・・このメールの送り主は一体どんな人物なのか? いや、そんなことはどうでも良い。予言や占いというのは外れるときが一番面白くエキサイティングというものである。最後にどんでん返しがあるのでは、と期待しながら観てしまった。しかし、この女の子は送られてくるメールという即物的かつ第三者的なものによって、性格まで変わってしまって本当に良かったのだろうか。うんにゃ、メールなどというもので、たやすく人の運命までも変わってしまうと言う、その危うさが狙いなのかも。


『蛍』監督●矢部ちひろ
 ・・・これもイメージ映像的な作品。上手く感想を言えず。すみません。


『さよなら公園』監督●吉川英理子、古賀朋子a.k.a.葉っぱの裏側シスターズ
 ・・・脱力系映画。「アルミホイルで何でも作れることに気づいたのよ」「首の座りが似ているね」微笑ましく観ていて心が和む。葉っぱの裏側シスターズのCDを購入。囁くような歌声。毎日聴き込きこんでいます(^_^)。


『コノ瞬間、無限。』監督●平岡香純a.k.a.カスミン
 ・・・アートフィルムという種類の映画は、まだ私には難しいです。


『実録ヲタクインタビュー シマゲプロジェクト』監督●木村莉菜
 ・・・フェイクドキュメンタリー、と観る前から知っていたわけではないが、シマゲさんが出てきた瞬間、あぁこの人は演技をしていると感じた。何故分かったか上手く言えないが、なんとなく分かった。インタヴュー中に彼が怒り出してもヤバさはもうひとつ感じられず、安心して観ていられる。このシマゲさん役の御方はきっと性格の良い人なのだろう。彼の服装から外観からもっと作りこむとか・・・う~ん、難しいね。


『2007年2月2日』監督●安川有果
 ・・・各場面が固定カメラでじっくりと撮られる。この種の映画は”淡々系”と揶揄されることが多いものだが、『2007年2月2日』は女の子の振る舞い・仕草に引き込まれる。机に向かう後姿を見ているだけで、結構惹かれる。かなり気に入りました。監督の安川さんは黒沢清がお好きらしい。


『胡蝶の夢』監督●藤本亜弥
 ・・・ブラッケージがお好きなのかな、と思いながら観ていました。上映後に監督さんご本人からもブラッケージがお好きと伺いました。季節的に生きた蝶々が確保できなくて、アニメの蝶々にしたのだとか。


『ウサギ★ララBYE!』監督●神農了愛(CO2第2回監督)
 ・・・素敵。こういうの好き。やっぱり自主映画はこうでないと。なんなのだろう、この面白くも怪しい雰囲気は。ウサギのかぶりモノをしているが、”おふざけ”と”真剣なギャグ”は違う。その証拠に各ショットは極めて真面目かつ丁寧に撮られている。放課後の教室、机を挟んで向き合うウサギ部部長と副部長の対話場面のショットの真剣さを見よ。

テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

【2007/03/12 23:30 】 | CO2 | コメント(611) | トラックバック(2) | page top↑
『叫』
sakebi.3.jpg  ストーリーは単純にして明快。高度な謎解きの映画ではなく、『ドッペルゲンガー』のように混乱させるような映画でもなく、かといって『CURE』や『ニンゲン合格』のように融通無碍でもなく、『叫』はストレートな幽霊映画に仕上がっている。『廃校奇談』『DOORⅢ』『トイレの花子さん』『降霊』などのホラー映画で黒沢清が追求してきた恐怖表現の展覧会と化しており、長年の黒沢ファンにとっては楽しい限り。
 セルフパロディの徹底ぶりは、このホラー映画はコメディだったのか、と見間違えさせるものがある。娯楽に徹すべし、と黒沢清は密かに心に決めたのかもしれない。恐らく合成画面だと思いますが、幽霊役の葉月里緒奈が周囲と光の当たり方が違っているという、サービス精神も見ていて楽しい。

■幽霊に与えられた物質的な目
 幽霊を演じる生身の俳優から人間らしさを剥奪するには、どうすれば良いか。黒沢清はいわゆる小中理論に則って幽霊演出を発展させてきたことは広く知られている。『叫』の赤い服の女は、ホントにあった怖い話の『夏の体育館』で鶴田法男と小中千昭が発明した、赤い服を着た女がズズっとこちら側に迫り寄ってくる恐怖表現の延長上にあるのも承知の通りだ。『DOORⅢ』での真弓倫子が田中美奈子 に迫りよってきた映像と全く同じカットで、『叫』の葉月里緒奈が役所広司迫ってくるのだ。あぁ観ているだけでワクワクするわぁ。
 がしかし『降霊』にしろ『トイレの花子さん』にしろ、過去のの黒沢清の幽霊を特徴づけるのは、は顔の目・鼻・口を欠いた平坦なことにあったはずだ。
 実際今まで黒沢の映画に登場した幽霊は、『トイレの花子さん』('94)のラストに現れた幽霊も顔面が布を張ったようにのっぺらぼうであり、『トイレの花子さん』('01)での幽霊もCGで顔がぼかされ口だけが強調されており、『降霊』での女の子の幽霊の顔もツルッとのっぺらぼうだったものだ。
 のっぺらぼうな顔面への拘りはDVDボックスの”集積回路”に収められたインタビューで黒沢清が触れていた。顔がのっぺらぼうなのは人間の感情を欠落しているため、と仰っていたように思う。
 だとすると『回路』に現れた幽霊(体をグニャっと曲げる女)が普通の人間の顔を晒したことが極めて重要な事件だったと言えるだろう。前作の『LOFT』の泥まみれの安達裕美の顔の目だけが異様に輝いていたことが忘れ難い。『叫』では葉月里緒奈の目を見開きっぱなしさせて彼女に一切の瞬きを禁じさせた。いつしか黒沢清監督は幽霊の物資的な眼球に執着し始めている。

■幽霊哲学
 『回路』以来、黒沢の幽霊は恐怖の対象としての幽霊を超えて、人間の世界にズケズケはみ出てきてしまった。画面に映っている人物が生身の人間なのか、それとも幽霊なのか判別がつかなくなってきたのは『ドッペルゲンガー』の頃からか、いや、もっと遡って『ニンゲン合格』の頃からだろうか。彼の幽霊哲学をどのように解釈すれば良いのか、そこが悩みどころだ。
 幽霊のはずの葉月里緒奈は何故にドアを生身の手で開けて外に出てゆくのか。幽霊のはずの小西真奈美は何故にちゃんと食事をしたり、旅支度を整えてハンドキャリーのケースを転がしながら駅の自動改札を通過するのか。幽霊の実態および内面は人間界の私達には丸っきり理解がつかぬ。
 葉月の教唆により役所が小西真奈美を殺害したとしても、何故に小西は何故にあっけらかんとした態度を取り続けることができて、なおかつ役所を簡単に許すことができるのか。何故に葉月の存在に気づいた役所が遺骨を回収することで「あなたは許します」になってしまうのか。
 何故なのかという問いに対しては、そんなこと知るか、というのが多分黒沢の答えだ。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』において何故かと問うてばかりの学生に伊丹十三教授が返したように。
 がしかし、徹底して内面を欠いた女性のように見える小西真奈美だが、ラストカットの彼女の慟哭ぶりにはグっときた。今まで感情を押し殺し、最後に溢れ出た小西の叫び声だけ音声が消されていて、肝心の叫び声は役所には届かない。幽霊も愛情やら惜別やらの感情を持っているならば、やっぱり彼らはほとんど人間に近いのだろうか。いや違った、そもそも黒沢清の映画では幽霊と人間の区別など最初から無いのだ。

■伝道師の威厳、今いずこ
 葉月里緒奈の呪いによって、東京都民のみならず世界中の人間が『回路』のあっち側の世界に逝ってしまうという終わり方も人を食った突き抜け方だ。東京都民がバタバタと姿を消してゆく場面があれば、いかにも恐怖映画に相応しくおぞましい映画になっていたかもしれない。
 人間の役所広司が幽霊の葉月里緒奈を救済するつもりだったのが、逆に幽霊の葉月と恋人の小西真奈美に救済されてしまうという逆転が起こり、何故か許されてしまった役所広司が世界の中で独りぼっちになる。『CURE』のような伝道師にもなり損ね、ワケの分からぬまま許されてしまった役所が人の居ない街角を歩く。彼は徹底的に孤独だ。その先に何があるというのか。

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【2007/03/10 00:48 】 | 日本映画 | コメント(2) | トラックバック(6) | page top↑
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