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『僕は妹に恋をする』雑感
bokuimo.jpg 現時点でまだ『僕は妹に恋をする』を1度しか観ていないため、何か見落としがあるかもしれない。素晴らしい出来栄えには違いないが、まだちょっと考えることが多いので続きを書きます。
 まず、頼と郁の二人に血の繋がりに呪われた感じが薄いような気がした。これがジャニーズのタレントが主演でなければ、それにVシネマか何かであれば、もうちょっとエゲツなくかませたかもしれない、とも勝手に思う。
 それはそれで、安藤監督の鬼の長回しが炸裂するので、こちらとしては息を止めて画面に集中しなくてはなるまい。
 ところで安藤尋監督の映画の面白さは二人の関係の変化にあると思っている。『ココロとカラダ』の女の子二人は、被害者と救出者→サゾとマゾ→共犯者同士、と次々に関係性を変化させる面白さがあったが、『僕は妹に恋をする』の郁は徹底して受身だ。”受身ゆえの怖さと凄み”というのもあろうかと思いますが、『ココロとカラダ』の知美の危なさまでには及ばない。
 楠という同級生の女の子も活躍して欲しかったかな。あの女の子がもうちょっと主張して、頼と郁を引っ掻き回すのかと思っていたのですが・・・特に物語に揺さぶりをかけるようなことはしないという。
 ああこれは”二人で一緒に地獄に落ちましょう”と言う映画かな、と思って観ていたのですが、地獄に到らず途中で引き返すのですね。『僕は妹に恋をする』の若い二人は苦~い挫折を味わうという、甘酸っぱさ皆無の挫折の青春映画なのだ。
 血の繋がりを超えた、恋愛関係でもない特殊な関係にまで二人を昇華させたら、より凄い映画になっていたかもしれないとも思うが、そうなったら映画館に詰めかけた若年層の観客には危険すぎるかもしれない。
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テーマ:僕は妹に恋をする - ジャンル:映画

【2007/02/01 21:39 】 | 映画監督 安藤尋 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『僕は妹に恋をする』
 初日に観て来ました。『僕は妹に恋をする』は実に痛ましい物語だった。以下、第一印象を勢いだけで、一気に書きます。↓↓↓
※文章があまりにもひどかったので修正しました(1月22日)。

■3人目の双子
bokuimo1.jpg 物語の時間軸が数年間にわたる『blue』や『ココロとカラダ』と違い、『僕は妹に恋をする』には一組の男女の頼(松本潤)と郁(榮倉奈々)に生じた変化の過程が1~2週間のごく短期間内に凝縮されている。
 『blue』以来の作法として髪を染める高校生は存在せず、男女を問わず学生は全て黒髪であり、黒髪と黒ネクタイを白い制服にいっそう映えさせながら『僕は妹に恋をする』の若者達は安藤尋の抑制の美学に収まっている。
 痛ましく受苦的な表情を顔面に湛えた榮倉奈々が素晴らしいのは言うまでもないが、それにしても彼女の身長が他の女子高生の誰よりも高く、相手役の松本潤と隣り合った場合に両者の身長がほとんど同じ背丈に並ぶという事態をどう捉えるべきだろうか。
 大袈裟なメイクもなされず、女の子らしい小道具(例えば髪飾りや指輪といったような)を廃した榮倉奈々は見ようによっては男子にも見え、懊悩する松本潤の方が女性的な色気を放っている。
 『blue』と『ココロとカラダ』がそうであったように、そもそも安藤尋監督が描いてきた”恋愛関係”は男女間に収まりのつくものではない。頼と郁が互いに抱く感情は、かつて二人は一心同体だったというところから来るものである。安藤尋監督が拘るのは、恋愛に似ながら、恋愛を超えた、特別の関係であったはずだ。
 ここに矢野君(平岡祐太)の存在が浮上する。
 彼は本当に郁を好きなのか・・・。頼が郁を好だから、自分も彼女のことが好き、みたいな。彼の内面は空虚ではあるまいか?
 常に頼の傍らに寄り添いながら、郁と積極的に三角関係を形成するでもなく、男同士の携帯の写真を見てにやけたりもする、とらえどころのない矢野という男が『僕は妹に恋をする』の鍵を密かに握っている。
 ラスト近くの場面。郁と楠木に去られて頼が屋上に一人取り残される。『blue』の市川実日子ならばすぐに小西真奈美の後を追ったが、『僕は妹に恋をする』の頼はどうすることもできない。彼の背中を押すのは矢野君だ。
 矢野君が頼に近づく。二人は終始、目を合わさない。自問自答のように一方的に頼が発する言葉に合わせ律儀に矢野君が言葉を返すので、会話が不思議にも成立してしまっている。
 この場面の両者の去り際で、彼らは合わせ鏡のように互いに背を向けて立つ。ホモセクシャルと決め付けるには早い。ややっ、彼こそ精神的に連帯した3人目の双子だったのではないか。

■暗闇に包まれた校舎
bokuimo2.jpg それにしても大胆な画面だった。学校の廊下や放課後の教室は本当に暗かった。こうも画面の暗い映画はそうお目にかかれない。フィルムの感度の限界に挑戦しているような凄い映画だ。役者の顔に光が当たらなくて、顔が真っ暗という事態はそこかしこに生じている。凄いぞ鈴木一博さん。多分、スタッフは不安で仕方なかったと思う。ちゃんと写っているのか?、みたいな(笑)。
 がしかし、最後に頼と郁が約束の場所に来る場面では晴天であり、明るさに包まれた光景であった。二人は決して結ばれることは無いということが明白になったとき、頼と郁は残酷なまでに明るい風景に取り囲まれている。
 郁と友達が「補修の授業が最悪だよ」などと言いながら廊下を歩く場面で、後退撮影のカメラの車輪が電気コードか何かの障害物に当たってガタっとカメラが一瞬だけ揺れた。電線みたいなものが何故に廊下のあんなところに走っていたのでしょうか。
 あと頼と楠がラブホテルの一室に居る場面で、広角カメラなので、ベッドに横たわる楠の姿が平面的でべちゃっとしていたかな・・・。
 いや、別にどうでもいいことです。しょうもないこと書いてすみません。

■体内回帰願望?
bokuimo3.jpg 『僕は妹に恋をする』には安藤尋印のが出てこないという事態をどう考えるか? 『ZOO』での動物園という設定でさえ、ちっとも動物園らしく見えず、森の中に男女が迷い込んだような印象だったというのに。
 『僕は妹に恋をする』では、今までの安藤尋作品で見られた森の迷路あるいは海の開放空間というものがどこにもなく、劇中人物は「世界中で二人きりみたいだね」という言葉通りに、空間がぽかんと広く、それでいて閉鎖的な空間に身を置く。
 学校が舞台とはいえ学生が教室で勉強する場面はほとんど見受けられない(諏訪太郎が英語教師役!)。 安藤尋監督にとっての学校とは、誰も人のやって来ない屋上であり、誰にも見えない場所に位置する体育館の2階であり、誰にも邪魔されない理科室であり、ひとりぼっちの放課後の教室である。
 頼と郁が結ばれる極端な長回しの場面を見よ。役者の顔の表情が辛うじて判別できるかどうかという暗闇の深さと、異常に狭苦しい空間はいったい何なのか。彼らは母親の胎内に居るのではなかろうか。
 母親の胎内にいるかのような錯覚は学校にも波及してゆく。夕闇に包まれる放課後の教室を見てみよう。全ての窓がカーテンで塞がれているので外界とは遮断されている印象が強いが、それでいて夕闇の暖色系のうっすらとした光により教室内は、母性的な温かみに包まれている。
 先に帰った郁を追いかけて頼が教室に駆け込む場面。放課後という設定なのに何故か教室の窓が全て開いていて、びらびらとカーテンが風に揺れる。
 『blue』の小西真奈美と同じポーズで身をかがめながら、楠(小松彩夏)が頼に口付けする。この風が『blue』で市川実日子と小西真奈美がキスする場面の海辺で吹いていたものと同じものだと気づくと感動的だが、楠と頼の二人の顔は真っ暗でよく見えない。そこが『blue』との違いだ。
 母親の胎内で起こることは二人だけの秘密なのであり、第三者の踏み込む余地はないのである。

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【2007/01/22 01:51 】 | 映画監督 安藤尋 | コメント(0) | トラックバック(7) | page top↑
『dead BEAT』
t-deadbeat.jpg 新世界のトビタ東映で観たのは数年前のことなので、だいぶ記憶が定かではないのですが、思い出しながら無理やり書くことにする。
 でも印象的な場面は良く覚えている。男を惑わせるファムファタール然とした真野きりあ、森の中での疾走など、後の安藤作品にもたびたび現れる彼のこだわりはあちこちに散見できる。関係ないが、画面の画質とラストの縦書きのエンドロールなどから察するに、東映ヤクザ映画を模したのだろうか。

 どっちにしたって90年代後半、黒沢映画の常連俳優となり、かつVシネのスターに君臨していた時分の哀川翔は最高だ。しかし『dead Beat』で我々が目にするのは、哀川翔ならざる哀川翔なのであり、哀川翔がこうも寡黙な役柄をあてがわるのは珍しい。死のビートは極めて静かに奏でられる。監督の安藤尋と脚本家は過去のVシネにおける哀川翔の役回りを外した地点からドラマを立ち上げ、哀川翔の静かな存在感に賭けている。
 妻子もちの父親という設定にしては、哀川翔が家族と触れ合う場面はただのひとつも存在せず、妻と子が寝ている様子を見守る程度だ。
 哀川翔は喫茶店のマスターの役なのに接客する場面がひとつもなく、せいぜい店内を整えている場面しかない。閉店後の後片付け、もしくは開店前の準備の様子だけが描かれているのだ。彼は何かの準備をしているのだろうか。だが何の?・・・
 破滅志向の根津を敵にし、漠然とした脱出願望を持つ村上を仲間に持ちながらも哀川翔は、根津の破滅に付き合うわけでも、村上の脆い夢に付き合うわけでも無い。根津はヤクザに追われて逃げるだけなので両者の対決ムードはいささかも高まらない。上手く立ち回って金を巻き上げれば借金が返せて楽になれるのにそうもせず、哀川翔は自分の負の部分を時間をかけてゆっくりと清算するつもりだ。ラスト、瀕死の根津と哀川翔が向き合う場面。
   哀川「幸せそうだな。」
   根津「ああ。あんたは?」
   哀川「幸せだよ。家族もいるし、借金もあるしな」
 これは『借王』に出演し、家族も持ち裕福になった哀川翔の実人生を照らし合わせた言葉なのだろうか。いや、そんなわけはないか。

 などという邪推はさておき、ラストの撃ち合いはVシネならざる描き方だ。轟いた銃声の数よりも明らかに死体の数の方が多い。転がる大量の死体から考えても短時間の内にあれほどの殺戮がなされたとは考えにくい。哀川翔主演のアクション映画と聞いてスタッフは大量の血糊、及び弾着用の火薬を用意し始めたに違いない。
   安藤監督「いや、俺は撃ち合いを撮るつもりはないよ。」
   助監督「・・・」
 会話を生々しく想像することができる。

 などという邪推はさておき、殺戮の場に到着する前になぜ哀川翔は車を止めたのか。従来のVシネでの哀川翔の役回りからすると、あの穴の開かれた床下には、かつて殺害したヤクザの腐乱死体が埋められているか、もしくは来たるべき戦いに備えて大量の手榴弾、バズーカ砲、マシンガンなどの武器が隠されてしかるべきだ。しかし彼は戦いに参加するでもなく、ただ見守ることしかせず日々の生活に埋没する。彼が選ぶ道は緩やかな消滅なのだ。

 すみません。あんまり思い出せませんでした。細部に誤りが混じっていると思いますが、ご容赦下さい。TUTAYAにビデオ置いてないかな?

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【2007/01/20 00:15 】 | 映画監督 安藤尋 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『ココロとカラダ』 安藤尋
kokoro 『ココロとカラダ』にいわく言い難い「暗さ」が纏わりついているのは、安藤尋監督が廣木監督の弟子にあたり、ポルノ映画の世界を通過しているからなのかもしれない。だが『ココロとカラダ』で「暗さ」よりも「異常性」が際立っているように思います。本作のヒロインの知美の異常っぷりは『月光の囁き』の水橋研二の異常っぷりにも似てはいないか。

サゾとマゾの高みへ
 知美の行動原理は徹底している。知美の好きな恵子が負った傷を自分も同じように負うというものだ。時制を過去にずらしたラストの場面は、少し解釈しづらいですが、知美はレイプ犯を埋めようとして現場に戻ってきたのだろう。彼女が慕う恵子に傷を与え、許し難く殺す他ない犯人の男を逃がしてしまい、呆然となってスコップを落としたのでしょう。そして知美は嘘を隠し持ったまま恵子の傷を自らにも課してゆく。東京に出た二人の関係はサゾとマゾに変化している。

部屋の薄暗さへの誘惑
 『blue』の安藤監督と撮影の鈴木一博がかくも厳格な演出主義者であったことに、今更ながら気付く。劇的な展開を排除して(総じて劇中人物の発する会話の声には抑揚がない)、室内の居る人物の挙動が長回しで捉えられる。
 『ココロとカラダ』のほとんどの場面はアパートの一室で展開される。アパートの部屋のカーテンはたいがい閉じられており室内は暗い。さらに電気ヒーターが常に点いていて、照明の濃淡が生じやすくなっており、光と影の陰陽が知美と恵子の顔に刻まれる。少女の顔が光に照らし出される。これは...『ヴァンダの部屋』だっ!。
 浴室でシャワーを浴びている知美に、恵子が浴室の外から、己の暗い胸の内を吐露するシーン。浴室の電灯を浴び明るく姿が浮かび上がる知美、対して暗がりで立ちつくす恵子は影だけの存在となっている。かつ光と影の対比が見事。 シャワーを浴びる知美の耳に、浴室の外にいる恵子の声が聞き取れるはずがないが(恵子はぼそぼそと小声で呟くように話している)、彼女達はちゃんと通じ合っている。

水平線のない海
 同じようにラストに海が出てくる『blue』と比して『ココロとカラダ』様相が異なる。『blue』のラストに映し出された海の向こうの水平線が、本作にあって視界に現れることはない。
 『ココロとカラダ』の結末は知美に委ねられる。車内で居眠りからハっと目覚めた知美は、誘拐してきた女の子の居場所を確認しようと身を起こす。そして知美は女の子の姿を確認し「恵子、行こう。」、と台詞を発した後に続く、自動車と海と女の子を捉えたたショット。
 奇妙なことに、女の子のは自動車の隣に位置しており、知美の運転席から姿は見えない場所に居る。知美は女の子を見ずに、海を見つめていた。『blue』の桐嶋はビデオ画像の中に2度とやり直しのきかない過去を見て取っていたが、『ココロとカラダ』の知美はナマの海を見据えていている。彼女の視線は未来を見据えているように思うのだ。

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【2006/01/14 11:04 】 | 映画監督 安藤尋 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『京風ニキータ 女スパイ 由紀子』 安藤尋
 何故に女スパイが京都弁を話すのか、何故に魚の体内にトランシーバーが埋め込まれているのか、などと少しばかり沸いてくる疑問については、それらは単なる捨て身のギャグに過ぎぬのだろう、と述べて済ますこととして、やはり『京風ニキータ女スパイ由紀子』で問題となるのは部屋の中に人物がわずか二人しかいないことである(※注1)。
 しかしながら『京風ニキータ』の登場人物が女スパイとその夫の二人だけであっても大丈夫、平気、全然気にならない。ついでに照明の量が足らないため、室内の蛍光灯の光のせいで画面が少し緑色になっていても、大した問題ではない。『blue』以来、安藤尋が拘って描き続けるのは、たった二人の人物のシンプルな関係性の変化なのだ。
 『京風ニキータ』でひっかかるのは、女スパイが開き直って正体を明らかにする場面である。何故に彼女は「ハハハハハ」と笑いを保ちながらわざわざ冷蔵庫に行き、そこで赤い靴下を身に付ける必要があるのか。すぐに正体を晒すのではなく、そこで何故にワンテンポの間が入るのか。そして、京風のおっとりとした女性から、べらんめえ口調の野放図な女スパイに変身するためのアイテムの赤い靴下とは、ホントに必要だったのか。
 無意味とも思えるこの行為は、実は安藤尋作品の女性にとってなくてはならぬものなのだ。『pierce』での主役の女性のマリオがピアスを刺したように、『blue』での市川実日子が少女から画家に変身するときに水道のホースで頭から水をかぶったように、『ココロとカラダ』でのが、マゾの女へと変身するときに浴室でシャワーの水をかぶったように、安藤尋作品の女性達は決意を胸に秘めたとき、その身に何がしかの準備を施さなければならないのだ。 これを変身のための儀式と呼ぼう。やっぱりあの赤い靴下は必要だったのだ。

※注1: 部屋の中にたった二人の人物を配し、彼らの関係性の変化をじーっと撮影するジャ・ジャンクーという恐るべき映画監督が中国にいる。

テーマ:邦画 - ジャンル:映画

【2006/01/12 10:58 】 | 映画監督 安藤尋 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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