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『ソウル・フラワー・トレイン』西尾孔志監督
ソウル・フラワー・トレイン
新世界の猥雑な街並み、西尾監督の女の子趣味、秘密を抱えた娘。色々なものを寄せ集めて混じり合った雑種のような映画であった。
ポスターからして、上半分はキエシロフスキの映画のようであり、下半分はジャームッシュの映画の雰囲気である。第一、平田満の歌う『昭和残侠伝』は東京の浅草や神田などの下町のヤクザのお話なので、大阪には似合わない。

玄関から出てゆく平田満夫妻を横移動のカメラでがーっと追いかけるとき、あぁ、これから良質なコメディが始まると予感させられた。
とにかく観ていて気持ちの良い映画だ。カツラが外れるタイミングが良い、段ボール箱からラッパが現れるタイミングが良い。タイミングが良いということは、演出の前後の手順をきっちりと踏んでいるということである。

『ナショナルアンセム』以来、西尾孔志監督が一貫して描いてきたのは、根性の据わった女の子の冒険談であった。『ソウルフラワートレイン』では親と子に起こる「親離れ」「子離れ」という凡庸になりがちなテーマに加えて、「独立する」という、原作にはないテーマが盛り込まれる。
ここで西尾監督の思い入れは、親を失った真凛(まりん) に注がれる。「独立する」とは、すなわち垂直に起立することである。軽トラックの荷台で立ちあがり続ける真凛(まりん)の美しい立ち姿を見よ。軽トラックを演出させたら日本一と言われる西尾孔志監督の真骨頂だ。

平田満が娘と彼女の友人と外食する場目。カメラは異様なまでに、構図⇒逆構図の執拗な切り返しで、平田満と彼女達を交互に捉える。父と娘の距離が想像以上に離れていることが印象付けられる。昭和残侠伝の歌をひとしきり歌い終えた後、平田満は体を横に倒して寝ころぶ。
そして平田満が体を起こしたときに、最初にカメラのフレームが捉えるのは、娘ではなく彼女の友人であることから、親子の距離が心理的に離れていることが、またしても印象付けられる。

その直後の場面。娘の事実を知って平田満は公園で寝ころぶ。寝ころぶという身振りが反復されるが、今度は真凛(まりん) が傍らで一緒に寝ころんでくれる。「公園にいるけん」と、平田満の九州弁が、いつのまにか真凛(まりん) にも伝染している。もはや西尾監督の真凛(まりん)への傾倒は明らかとみてよい。反面、娘はぞっとするほど奇麗でお姫様然としているようである。

新世界の街並みが描かれるているが、『新世界の夜明け』などとも比較して、過去の大阪映画とさほど目新しいものもない。

但し、通天閣の存在感だけは別格である。そこかしこの場面で背景に写し込まれる通天閣。通天閣の垂直な立ちっぷり。
通天閣の垂直な起立ぶり、周囲からの街並みからの独立ぶりは、軽トラックの荷台での真凛(まりん)の垂直な立ち姿と呼応しているように思えてならない。また、平田満が大きくなった娘を「高い高い」して彼女の体を支え続ける場面でも、娘の体が垂直に起き上がらせようとしているようにも見える。

『ナショナルアンセム』のラストを思い出す。「我々は一人ずつが世界と立ち向かう国家である」と高らかな宣言された。このメッセージはマブゼ博士が発した声明を換骨奪胎したものであろうと、と推測してみる。
『ドクトルマブゼ』(フリッツ・ラング)の終盤、警官隊に包囲されたマブゼ博士が説得に応じず「私は国家である」と宣言したことが原点にあろうと思われる。
マブゼ博士は世の中の混沌を目論んだが、西尾孔志は個人の「独立ぶり」を肯定的に捉えた。旧ドイツでマブゼ博士が唱えたメッセージが、国境と時空を超えて大阪の下町に辿り着いたという、映画史的な横断ぶりが感動的だ。
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テーマ:西尾孔志 - ジャンル:映画

【2014/01/25 22:00 】 | 映画監督 西尾孔志 | コメント(6) | トラックバック(0) | page top↑
『ナショナルアンセム』再見
 西尾孔志監督の出世作の『ナショナルアンセム』を再び観る機会に恵まれた。僕は今回で2回目だが、前回よりも観ていて興奮してしまった。
 それにしても本作が『呪怨』(清水祟)よりも先に撮られていることに感動してしまう。主人公の妹が病院を連れ出された後に下町の工場みたいな辿りつく。妹の頭上に2階があり、その2階をタタタっと駆け抜ける人物の足だけがカメラに収められるショットがある。これなんか『呪怨』で亡霊の男の子が背後をタタタっと走り抜ける場面に凄く似ていると思うのだが。まぁ偶然の一致かもしれない。
 がしかし『叫』(黒沢清)で医師の父親が自分の息子を殺害してしまい、父親が息子の亡霊に怯える、という場面があることを思い出してしまう。『ナショナルアンセム』では高校教師が自分の教え子を殺害してしまい、教師が教え子の亡霊に怯える場面がある。黒沢清は『ナショナルアンセム』を褒めたと聞く。もしや・・・でもまぁ多分偶然の一致。

 『ナショナルアンセム』には映画史的記憶、それも日本映画の記憶が雑多に散りばめられている。日本映画といっても小津や溝口や成瀬ではなく、黒沢清、北野武、青山真治、小中千昭、鶴田法男、清水祟といった日本映画の新たな夜明けを告げはじめた90年代の記憶が『ナショナルアンセム』のそこかしこに召還されている。鈴木清純の『殺しの烙印』までさりげなく引用されてしまう軽ろやかさ。
 模倣は独創性を欠いた身振りだと思われがちだが、『ナショナルアンセム』においては、私達のごく身近な生活空間で、黒沢を北野武をたやすく現出させてしまう魔術的な手さばきに興奮するのだ。
 が、どうして『ナショナルアンセム』のカメラ位置はどれをとっても素晴らしい。男子学生が歩道橋を歩く場面で、彼の背後に大阪城が写っているという驚愕のショット。起伏の激しい一本道をウネウネと上下しながら走る車を望遠レンズで捉えられた驚愕のショット。映画の冒頭、妹が歩くとすぐ隣でガーっと電車が走るショット。マンションの一室からカットを割ることなく、そのまま窓から眼下を捉えたカメラの移動。因みにその後に続く、乳母車の女性の隣に男が居るという場面は『444』(清水祟)の参照だろうと思われる。
 このように、とにかく一つ一つのカットが絶妙な絵に収まりきっているのである。その適切なカメラ位置を探し出すまでのロケハンにこそ成功の鍵を握っていたのだと思われる。恐らく西尾孔志は関西圏をひたすら歩き回って、絵になるカメラ位置を発見していったのだろう。

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【2007/05/03 20:55 】 | 映画監督 西尾孔志 | コメント(0) | トラックバック(1) | page top↑
『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』
ochon.jpg 今、日本映画には重要な「ひろし」が3人だけ存在する。高橋洋、安藤尋、そして西尾孔志、この3人である。この御三方が少なからず接点を持たれていることを最近知って興奮を隠し切れない。
 それはともかく、大阪の心斎橋にあるカフェ裏CO2にて”女の子映画祭”とセットで鑑賞した『おちょんちゃんの愛と冒険と革命』はとにかく面白かった。第一回のCOのグランプリ作品なので観る前から面白いに決まっていると思っていたのだが、こうも面白いとは。
 『ナショナルアンセム』同様に世界の崩壊の図が描かれるが、『おちょんちゃん』では一人の女の子に怪しげな何かを憑依させて、西尾孔志は再び世界の崩壊の引き金を引こうとしている。
 何と言っても主演の上田洋子が素敵だ。方針状態で口が半開きの彼女の表情が忘れ難く素晴らしい。亡霊を従えた彼女(ハナ)を巫女にして、西尾孔志はこの私達の見慣れた世界に亀裂を生じさせる。
 西尾映画の女性は犯されるかもしくは銃で撃たれるかして、きまってロクな目に遭わない。その犯すか撃つかした男性も惨めな末路を辿る。一人の女の子の身に起こった不幸な出来事が、世界の崩壊まで一挙に拡大される荒唐無稽ぶり。ラストは『スペースバンパイヤ』(T・フーパー)の形を借りながら、ハナとおちょんちゃんがひとつに合体する。『ナショナルアンセム』では世界の破綻が個の闘争へと昇華したが、『おちょんちゃん』では、世界の崩壊のさなかにあって、個人の救済がもたらされることになる。

 『ナショナルアンセム』の姉妹がチャーミングな相貌で画面に映っていたことからも明らかなように、また『ナショナルアンセム』のラストは女性の闘争映画に強引にシフトしながらも女闘士がやたらカッコよく見えたように、西尾孔志には女性を撮る才能に恵まれている。それに反して、盲目の老人や宗教家などの男性キャラクターが少し型にはまった感がするのが、少し物足りない気もするだろうか。

 「性的トラウマ」と口にするのは簡単だが、それをどうやって映像表現にするのか。多分、誰がやっても悩むと思われ、またそこにこそ映画作家の力量が試される。西尾孔志は小中理論に即した亡霊演出を呼び寄せた。例えば居酒屋の場面で沖縄民謡を踊るハナを見つめるおちょんちゃんが壁の隅の普通の人間ではありえない位置に立っていたり、診察室の場面でカットが変わったら突如おちょんちゃんが医師の隣に立っていたりする場面がそうだ、。
 が、小中理論を参照しつつも、カットと滞空時間がビデオ撮影でありながら、優れて映画的だ。あるカットに続く次のカットが予想できない、という興奮の体験へと『おちょんちゃん』は観る者を誘うのである。全体的にカット尻が短いためにそう感じられるのではない。あるカットをどのカメラ位置でどれだけの時間をかけて見せればよいかという的確な判断が細部に行き渡っている。
 例えば、UFOを呼ぶ集団を撮るのに、引き絵を選択できる西尾監督のカメラ位置は聡明だ。なおかつサークルの中心が画面のを外れているというセンスの良さ。”一時間後”という字幕の後に、ハナが”はらぎゃてぃ~”、と最も大きな声を張り上げている、というギャグも追加される。
 紙飛行機が飛んだ後に、フレームの外からハナが入ってくる絵ひとつとってみても、ハッとさせられる力がある。ハナがマンションに帰宅してきて、同居中の女がセックスにふけるのを見つける場面の長回しなどもちゃんと決まる。その同居中の女と公園で別れる場面の、あのブランコの撮り方も凄かった。

 さらには、どうやって撮影したのか?と不思議にも思う映像がいくつか存在する。例えば、エイリアンの男に刑事がアリバイを聞きに来る場面で、刑事の去り際に、突如として背景に直後の飛行機が横切るカットなどは、よくもまあこんな凄い絵が撮ることができたと思う。決して偶然ではない。撮影スタッフは飛行機の離陸をずっと待ち続けていたのだろう。或いは夜の歩道橋の場面でハナがもう一人の自分と出会う場面。恐らく『霊の蠢く家』を参照しているのだろうが、カメラがパンして本人と亡霊がワンカットで捉えられるのが感動的だ。
 或いは、ハナがエイリアンの一味とマンションで夜通し過ごした後、ハナが帰る場面。一旦歩道に出た後、エイリアンの男の立ち位置まで戻ってくるのだが、彼らを捉える画面の右半分が遮られて真っ暗になっている。普通、ああいう絵を撮ったら駄目なはずなんだけど、あの妙な画面の余白に何故かしら惹きつけられるものがあるのは、何故だろうか。

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【2007/03/14 10:43 】 | 映画監督 西尾孔志 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『ループ・ゾンビ』
 大阪の心斎橋にあるカフェ裏CO2にて鑑賞。
 思い起こせば西尾孔志監督の作品を初めて観たのはシネトライブ2004での『ループ・ゾンビ』だった。一風変わったコメディだったと思う。台所が別の場所にリンクしていて、ある男がある地域から抜け出すことができない、という筋立てだったように思うが、詳細は想い出せない。
 どちらかというと、僕は『ループ・ゾンビ』よりも同じ日に観た『赤を視る』(浅川周)のドライヤー的な静謐さに惹かれてしまっていたのである。
 鑑賞当時、『ループゾンビ』を撮った監督さんが『ナショナルアンセム』ような傑作を劣りになるような御方だったとは、『ループゾンビ』を見た限りでは想像できなかった。僕の眼は節穴だったということだ。いや恐らく今もって私は『ループゾンビ』の素晴らしさを理解できていないのだと思う。映画の内容が思い出せないのが悔しい。冒頭、プラネットシアターの富岡さんがサングラスをかけてカジノの客の役で出演していたことは何故か良く覚えている。拳銃も出てきたかな・・・、やっぱり想い出せない。やっぱり悔しい。

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【2006/11/12 10:31 】 | 映画監督 西尾孔志 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『ナショナルアンセム』
 大阪の心斎橋にあるカフェ裏CO2にて鑑賞。
 噂どおりの凄い出来栄え。黒沢清を影響を組みつつも、映画そのもののテンションが得体の知れない相貌に高まっている。映画の前半、姉妹のうち精神のバランスを崩し気味の妹の目が世界の異変に気づく。
 狂っているのは妹の方か、それとも世界の方か。という具合に、妹の目を通して世界の歪さが露になってゆくのかしら・・・と思っていたら、連続発砲事件、刑事の捜査、教師の殺人というふうにジグソーパズルのピースが複雑に絡み合いながら世界の破綻が示され、最後には教師『ドレミファ娘の血は騒ぐ』のごとく個人の、それも女性の闘争映画へと軽やかにシフトする。『ナショナルアンセム』は、私達の見慣れたこの世界に亀裂を生じさせ、全く違う局面へと誘う闘争そのものの映画である。私達もボンヤリはとしていられない。よく考えてみろ。そして気づけ、世界の危うさに。と『ナショナルアンセム』は観る者に囁きかける。

 ふいに『ドクトルマブゼ』(F・ラング)のラストでマブゼ博士が人質を取ってたてこもる場面が思い出される。投降を呼びかける警察に対して、マブゼ博士が「私は国家である」と宣言するのであった。日本語の字幕ではそのあたりがちゃんと表現できていない、と高橋洋氏がプラネットシアターでトークショーをしたときに仰っていた。

 それはさておき、映画自体が素晴らしいので、「素晴らしい」と言うしかないのだが、それでも一寸だけ個人的に腑に落ちない点を書き連ねてみる。不発弾の発見に端を発し、戦時中の日本軍の怪しげな開発が研究所から漏れ出し、それに当たった人間が狂いだすという設定がなされていたように思う。世界が崩壊するのに明瞭な原因が特定できてしまうのが、個人的には物足りなさを一寸感じた。ワケもなく世界が壊れてゆく方がもっと恐ろしく感じられるのではないか。なんの説明もなしに、突如、自動車の後部座席に現れた少年の幽霊の方がよっぽど恐ろしい。いや、ほとんどこじつけで言ってることを自覚していますが・・・。

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【2006/11/10 10:39 】 | 映画監督 西尾孔志 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
『アカシックレコード』
 大阪の心斎橋にあるカフェ裏CO2にて鑑賞。
 本作は光と闇の2項対立の映画である。光に満ちた地上世界と地下の世界(実際、大阪の梅田駅周辺の地下は迷路のように入り組んでいて凄いのだ!)の間には、元宇宙飛行士の男が地上に出ようとしたら指先が焦げるくらいに、『光る目』(J・カーペンター)のような厳然たる境界が存在する。
 映画の終盤近く、都会の中心部の空中に巨大なスピーカーが現れる。『ナショナルアンセム』において、不発弾の発見を契機として平凡な世界が崩壊へ突き進んだように、『アカシックレコード』はDJが操るビートの効いた音楽のリズムに乗りながら、世界を混沌に陥れようと企ている。
 が、やっぱり徹底度が弱いと思う。DJに導かれて踊り狂っていた地下世界の住民は、ラストに地上に出ても、巨大なスピーカーを見上げて立っているだけで特に何もしない。『ソドムの市』(高橋洋)のように、拡声器を搭載した大型爆撃機が都市の中心部に現れて市民が皆狂って殺しあう、みたいなハチャメチャな展開を期待してしまうのだ。DJが「ねぇ知ってる?死ぬことと踊ることは一緒なのよ。」と言うわりには、踊り狂う地下の住民の様態に、或いは映画そのものに死の香りが漂って来ない。踊ることは何なのか、死ぬこととは何なのか、という人生の価値観に関する命題が表現の域に達していない。
 。あれほど地上に出ることを拒んできた元宇宙飛行士は地下鉄を使ってあっさりと地上に出てしまい、スペースシャトルの発射のイメージ付け加えられる。世界の混沌の図と元宇宙飛行士の救済が今ひとつしっくりとリンクせず、魑魅魍魎な地下世界が平凡な地上世界にはみ出して世界に混沌を招こうとする意思の力も薄いように思う。だが、地下を出て地上を通過しさらに宇宙へとスケールを拡大するほどに、西尾孔志の野心は強いのである。
 『アカシックレコード』ついて西尾孔志監督は「詰め込みすぎた。」と仰っていた。題材的には1時間以上の尺が必要な気もするが、分散気味になることを承知の上で西尾孔志監督は敢えて詰め込んだのである。

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【2006/10/28 10:34 】 | 映画監督 西尾孔志 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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