冷静さを欠いた文章で、映画の感想文を書き散らかします。文を書くことは、恥を書くことだ、と開き直ることにします。書いた後に凄く恥ずかしくなります。
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書く事で広告が消せます。 |
昨日からの続きです。
『スクラップファミリー』加治屋 彰人監督 ラストで刑務所から出所してきた娘の早紀が、突然横を向いて走りだす瞬間が素晴らしい。これと似たような疾走場面は他にもあり、ダッチワイフを捨てる母親と、彼女を追いかけるおじいちゃんの追いかけっこは素晴らしかったと思います。 画面手前を子供が走り抜けて画面奥の高校生にとび蹴りを喰らわす場面とか、ダッチワイフを海に流す場面で祖父と見守る夫婦を奥行きのある画面に収めるとか、ひとつひとつのショットはハッとさせるものがありました。 母親の保子のハイテンション演技が映画全体を乱しているように思えます。父親、母親、祖父、子供で演技の質が統一されていないように思えて、どうもしっくりとこなかったかな。 それと、どうも家族がスクラップしていないし、孤独でもないように思える。そんな変わった家族でもなくて、どこにでもいそうな感じ。娘の早紀さんにしても、年頃の女の子だったら、あれくらいのことは両親に向かって言うんじゃないかしら。「私は不良品なのよ」って、いやいや、早紀さんは可愛いし性格も良いし、十分に良い人間に見えますよ。 浮浪者を暴行する少年達を止める早紀さんのくだりの描写が生々しい。ひょっとして、これは正義の映画だったのかもしれません。思った以上にアツい血がこの映画には流れていたのか? 『新世界の夜明け』リム・カーワイ監督 『適切な距離』を観ていたら、隣の席に四角い眼鏡をかけた男性がひとり座って、良く見たらリム・カーワイ監督その人でした。さらにその隣には遅れて、加治屋監督がやってくるという。 『新世界の夜明け』のラストの御都合主義的に、数々の問題が片付くのは、御愛嬌。何で高利貸のワタナベさんが融資するのか、祖父は急に外人を受け入れるようになったのか・・・まぁ良いじゃないですか。クリスマスはお祭りなんだし。 こうも中国人をステレオタイプに描くのか、という違和感がありました。中国人のマフィアはまるで昔の日活無国籍アクション映画に出てくる中国マフィアのようだ。水商売で働く中国人のアヴィさんの、いかにも中国人っぽい日本語の発語の仕方は何なのでしょう。「~~アル。」って言う喋り方、ホントに中国人がするのかしら。 かつて毛沢東的な共産主義を打倒しようとしたエリ(子供の母親)を、流血の時代とは無縁の世代のココ(富裕層の娘)がお金の力で救出する。そのココに日本の浮浪者のおじさんが毛沢東の詩集をプレゼントする。喜ぶココ・・・うん?この複雑で高度な展開に私はついていけなかった。思想的にどうなんだろう?何か錯綜しているような・・・、いや私は何か見落としているのか。それともアイロニーなのか? エリはこの光景を見てどう思っているんだろう?・・・「こんなもの!」とばかりに毛沢東の詩集を海にでも投げ捨てたりとかしたら面白かったかも。 そのココさんも中国から来たのだから、お金の力に頼ることなく裸一貫で最後までいて欲しかった。中国の彼氏からの経由してボディガードが付く、というのは反則じゃなかろうか。あのボロくて狭い宿泊施設に泊まってこそ、真の国際交流じゃないですか。 むしろ、ホテルで働く中国出身のボーイさんに日本の大学教育の実情を語らせたり、中国人のココを見た日本人が「あの日本人かわいい」と間違えたりするのが、生々しくて良かったと思います。辺にマフィアとか出さずに、こういう方向性で頑張っていたら・・・ん?何か良い感想を一言も述べていないかも?ごめんなさい!リム・カーワイ監督。監督さんは良い人ぽかったけど。多分、製作条件が厳しかったのかしら。『マジック&ロス』を今度のアジアン映画祭で観たいですぅ。 観客賞の投票というのがありました。最後に白状しますが『聴こえてる、ふりをしただけ』を4点、『適切な距離』を3点、『スクラップファミリー』を2点、『新世界の夜明け』を1点としたのでした。『新世界の夜明け』が観客賞に輝くという。ありゃりゃ、私の見立ては間違っているのかしら。 |
『適切な距離』大江崇允監督
そういう意味では大江監督の『適切な距離』は異物感を感じさせて、観た後にも頭を悩ませる。自主映画はやっぱこうでなくちゃ。というわけで『適切な距離』のグランプリおめでとうございます。 『適切な距離』というのは”現実との適切な距離”が測れていないこと。母親が日記を付け始めます。母親の日記は白バックに黒字で”何月何日”と出るので白昼夢を描写しているような印象を受けます。その日記の再現描写が現実よりもずっと生き生きとしていて、現実よりも現実に近いように思えるのです。現実を浸食しかねないような。 何と言っても日本家屋を持ってきたのが素晴らしい。冒頭、息子の雄司が階段を下りてきて一階に来る。母親が食事をしている。ここでカメラは横サイドの位置にポジションを変える。がらんとして、殺風景で寒々とした日本家屋の空間が捉えられる。この母親と息子の心象風景を映し出しているようで素晴らしい。 その日本家屋での現実の場面では照明が暗めになっていますが、母親の白昼夢の場面では明るく生き生きとした空間に生まれ変わるという。この空間のギャップが素晴らしい。 息子の雄司は日記に見切りをつけ燃やしてしまいますが、この映画の凄いところは、架空の産物であるはずの、弟の礼司に実際に出会ってしまうことでしょうか。幽霊なのかドッペルゲンガーなのか良く分かりませんが。電車の座席で隣同士で向き合うという凄い場面があります。電車の窓ガラスに反射した映像に撮影スタッフが写り込んでいてもよさそうなものですが、何も写りません。どうなっているんだ。 雄司は最も出会いたくない人物(弟)に出会いますが、母親の方はどうか。母親にとって最も出会いたくない人物は、元夫に違いないと思われますが、この場面が日記の架空の場面としてで処理されているというのは、どういうことなのだろう。食卓を囲む家族達。ちゃんと礼司は彼女も連れてきている。 結局、この母親は日記の中で全てを処理してしまったのか?こんなんで良いのか?いやそもそも父親は実在していたのか?良く分からんかった。もう一度観ようかな。それにしても”階段”の不吉なイメージ!息子の雄司さんの面構えの強烈さ! |
今年のCO2の上映展はアットホームな雰囲気でした。純粋な映画上映展の趣となりましたね。運営の母体が変わると映画祭の質がこうも変わるのかと思いました。去年までのCO2の上映展は、ライブとかアニメとか実験映像とかもあったのに。”どらビデオ”さんとか居ないの?
以前のアナーキーな魅力が抑制されてちょっと寂しいかな。青山真治監督がが授賞式で泥酔していたのか、審査の席で喧嘩が始まったとか、昔はもうちょっとワイルドな味わいだったのですが・・・。大友良英さんが表彰式のときに凄いメールを送ってこられたのは去年のことだったでしょうか。CO2のCはカオスのC!と僕は思っていたくらいだぞw。 肝心の作品はどれもこれもハイレベルなものでした。書いているうちに長くなってきたので、以降、3回に別けて感想を書き連ねます。 『聴こえてる、ふりをしただけ』今泉かおり監督 今回のCO2上映展は今泉かおり監督の『聴こえてる、ふりをしただけ』に超感動。冒頭、"さっちゃん"の上半身をゆっくりとカメラがティルアップするだけで、あぁこの映画は傑作になりそうな予感がした。『聴こえてる、ふりをしただけ』は成瀬巳喜男の『まごころ』にも比肩すべき女の子同士の愛憎の映画でした。 もぅ泣けに泣けた。36歳のおじさんの僕の涙腺を直撃。ラスト近く、お守りを橋から放り投げて、さっちゃんが駆け出す。正面から彼女の顔を捉え、ボサボサの頭が徐々に動き出し彼女が号泣する。「あぁここで映画が終わってくれ!」と、スクリーンに向かって叫んだ(心の中で)。 ここで映画が終わっていたら、成瀬巳喜男の『乱れる』もしくは、ツアィ・ミンリャンの『愛情万歳』のように感情断裂のラストになったかもしれない。まぁ贅沢言っちゃいかんが。黒沢清さんも仰るようにラストの予定調和気味がちょっぴり惜しい? それにしても最近の自主映画のカメラは凄いです。機材が凄いのか、カメラマンの腕が凄いのか。人物の背景がボケ気味なのに、狙った人物にピントがぴったり合っているという。背景から人物が浮き上がって見えるのです。『聴こえてる、ふりをしただけ』を観て、はじめてデジタルHDの映像を”美しい”と感じた。 今までデジタルよりもフィルムの方が、ずっと美しいと思っていたのですが『聴こえてる、ふりをしただけ』では、女の子たちの顔をデジタル映像でずっと観ていたいと思えました。”さっちゃん”の少し虚無をまとった顔の表情の美しさ、知恵遅れ気味の女の子の”のんちゃん”の神様のような天然な顔。それでいて、満面の笑顔を浮かべながら相手を奈落の底に突き落とす、みたいな感じでした。 『聴こえてる、ふりをしただけ』を是非グランプリに!これがグランプリじゃなかったら俺は死んじゃう、とさえ思ったが、何か違うかなとも同時に思えてきたのであった。撮影・音響・役者の演技・・・などどハイレベルなクオリティーを追求するのが自主映画の(CO2の)進むべき道なのだろうか、と。 何かエライもの観ちゃった、何か変なもの観ちゃった、と心に引っかかるものを観る者に残すのが自主映画の醍醐味でしょう。なんでもハイレベル、というのはちょっと違うか。 |